夢を持つことと、夢を追いかけることは、違う。追いかけるためには、何かを捨てて、何かに賭けなければならない。山田耕筰という人の話をするとき、私はいつもそのことを思います。
ベルリンへ渡った若者
山田耕筰は1886年(明治19年)、東京に生まれました。孤児として育ち、教会音楽に触れたのが音楽との出会いだったと伝わっています。その後、東京音楽学校に進んで才能を開花させ、声楽と作曲を学びます。
卒業後、彼はある決断をします。ドイツへ行く、と。
1910年(明治43年)、山田はベルリンへ渡りました。向かった先はシュテルン音楽院。ドイツ・ロマン派の作曲家マックス・ブルッフのもとで、本格的な作曲の訓練を受けます。マックス・ブルッフといえば、ヴァイオリン協奏曲第1番で知られる大家です。その師のもとで、日本から来た若者は、西洋音楽の核心に向き合っていきました。
当時のベルリンは、音楽の世界の中心でした。ブラームスの影響がまだ色濃く残り、リヒャルト・シュトラウスが活躍し、マーラーの交響曲が時代を揺るがしていた。そんな都市の空気を吸いながら、山田は「自分も交響曲を書きたい」という夢を育てていったのです。
日本人初の交響曲、その誕生
1912年から1913年にかけて、山田耕筰はベルリンで交響曲を完成させます。「交響曲ヘ長調」――後に「勝鬨と平和」とも呼ばれるこの作品が、日本人の手によって書かれた最初の本格的な交響曲です。
1914年、ベルリンでの初演。その場に日本人作曲家の書いた交響曲が鳴り響いた。ヨーロッパの聴衆の前で、日本語も日本の文化も知らないオーケストラが、ひとりの東洋人の書いた音楽を演奏した。その瞬間の重さを、私たちは今からでも想像できると思うんです。
この曲を聴いて「日本人がこれを書いたのか」と驚いたヨーロッパ人がいたかもしれない。山田自身はどんな気持ちで指揮台の横に立っていたでしょう。誇りと緊張と、長い旅の疲れと、それから――きっと、言葉にならない感情が、ないまぜになっていたでしょう。
帰国、そして音楽を届ける旅へ
1914年、山田は帰国します。ちょうど第一次世界大戦が始まった年のことでした。
帰国後の山田が取り組んだのは、作曲だけではありませんでした。日本全国にオーケストラの音楽を届けること。演奏会を企画し、指揮台に立ち、自ら各地を回った。まだクラシック音楽が「ごく一部の人のもの」だった時代に、できるだけ多くの人に生の音を聴かせたいという情熱があったのです。
彼が書いた歌曲は生涯で1500曲を超えるといいます。「からたちの花」、「赤とんぼ」。これらを今でも口ずさめる人は多いでしょう。あの旋律の中に、山田が日本語の美しさと西洋音楽の語法を融合させようとした痕跡が、静かに宿っています。
西洋音楽を「輸入品」として受け取るのではなく、自分の言葉で語り直す。山田耕筰が切り開いたのは、そういう道だったと思います。
次回は、その山田耕筰とも深く関わる、日本最初の本格的オーケストラの誕生について。NHK交響楽団の前身が刻んだ、この国のオーケストラ史の夜明けです。
