日本とクラシック音楽の物語

明治の夜明けと「お雇い外国人」 ―― 東京音楽学校が生まれるまで

日本が近代国家として世界に認められるためには、何が必要か。明治の政治家たちはその問いに、驚くほど真剣に向き合っていました。軍備、法律、産業、そして――音楽も、その答えの中にあったのです。

「音楽を国家の力で」――音楽取調掛の誕生

1879年(明治12年)、文部省に「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)」という組織が設けられました。日本の音楽教育を調査・研究し、西洋音楽を学校教育に取り入れる方法を探る、という使命を持った機関です。

その中心に立ったのが、伊沢修二という人物でした。長野県出身の伊沢は、音楽教育を学ぶためにアメリカへ渡り、ボストンでルーサー・ホワイティング・メーソンという音楽教育家と出会います。メーソンは当時、アメリカで小学校音楽教育の改革を進めていた先駆者でした。

「この人に日本に来てもらおう」。伊沢は帰国後、文部省を動かしてメーソンを招聘します。1880年(明治13年)、メーソンは来日。それから約2年半の間、日本の音楽教育の基盤づくりに深く関わることになります。

伊沢とメーソンが向き合っていたのは、単に西洋音楽を移植することではありませんでした。日本の子どもたちの声域や感性に合った、「日本のための音楽教育」を一から設計するという仕事でした。その成果は、1880年に刊行された最初の学校音楽教科書「小学唱歌集」として結実します。

君が代に西洋のハーモニーを与えた男

お雇い外国人の中でも、ひときわ印象深い人物がいます。フランツ・エッケルトです。ドイツ出身のこの軍楽隊長は1879年に来日し、日本の海軍軍楽隊の指導にあたりました。

そして1880年、エッケルトはある仕事を仕上げます。イギリス人のフェントンが1870年につけた君が代の旋律に、正式な西洋式和声編曲を施したのです。今日私たちが耳にする「君が代」の響きは、このときエッケルトが整えたものです。

たった短い1曲。でもそこには、日本の伝統的な音感覚と、ドイツ式の和声法が、不思議なかたちで溶け合っている。音楽ってそういうものだと、改めて思います。異なる文化が出会うとき、時に予想外の美しさが生まれる。文化は、交わることでより豊かになる。これはいつの時代も変わらない真実だと思うんです。

東京音楽学校、専門教育の夜明け

音楽取調掛の8年間の活動を土台として、1887年(明治20年)、東京音楽学校がついに設立されました。現在の東京藝術大学音楽学部の前身です。

この学校には引き続きヨーロッパから優秀な音楽家が招かれました。オーストリア出身のルドルフ・ディットリッヒは1894年から数年間ピアノや対位法を教え、学生たちに本格的なヨーロッパ式の音楽教育を伝えました。

当初の教室の様子は、さぞかし独特だったでしょう。洋装の外国人教師と、着物姿の日本人学生が、ピアノや弦楽器を前にして向き合う。言葉の壁を越えて、音符とジェスチャーで教えが受け渡されていく。そのぎこちなくも真剣な光景は、明治という時代の縮図のようでもあります。

それでも、そこから確かな芽が育っていきました。次の世代を担う音楽家たちが、ここで丁寧に育てられていく。やがて世界に通じる演奏家や作曲家が、この学校から生まれていきます。

次回は、東京音楽学校が育てた音楽が、学校という壁を越えて街へ、家庭へと広がっていく話を。「唱歌」という名のもうひとつの音楽革命です。