ある日突然、教室に音楽がやってきました。明治のある朝、全国の子どもたちが、それまで誰も歌ったことのない「新しい歌」を習い始めたのです。
唱歌という名の革命
1880年(明治13年)、日本で初めての学校音楽の教科書が生まれました。「小学唱歌集」と呼ばれるその本には、西洋の旋律に日本語の歌詞を乗せた歌が収められていました。これが「唱歌(しょうか)」の始まりです。
音楽取調掛の伊沢修二たちが取り組んだのは、単純に西洋の歌をそのまま輸入することではありませんでした。日本語の音のリズム、子どもの声域、そして日本の文化に合った歌を選び、作り上げていく作業でした。
収録された曲は、多様な出自を持っていました。西洋の旋律に和訳の歌詞をつけたもの、もとからある日本の歌を西洋式に編曲したもの、まったく新しく作られたもの。唱歌集は、そんなさまざまな曲が混在した、不思議な混血の音楽集でした。
その中のどれかを、明治の子どもたちは教室で初めて声に出して歌った。私はそのことを想像するたびに、なんともいえない温かい気持ちになります。音楽との最初の出会いって、人生をずっと変えてしまうことがある。あの子たちのなかに、音楽の喜びを知った子が、きっとたくさんいたはずです。
蝶々はドイツからやってきた
唱歌のなかには、出自を知ると驚かされる歌があります。
「蝶々、蝶々、菜の葉に止まれ——」。あの親しみ深い旋律は、もともとドイツの民謡「ヘンチェン・クライン(Hänschen klein)」なんです。日本の野原を舞う蝶の歌が、実はドイツの子ども歌に由来していた。知ってましたか?
「蛍の光」は、スコットランドの民謡「オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)」が原曲です。今でも卒業式に歌われるあの曲が、もとはスコットランドで旧友を思って歌われた歌だったとは。
「仰げば尊し」もアメリカの歌が原曲とされています。明治の文部省の人々は、世界中の音楽を丁寧に調べ、「日本の子どもに合う旋律」を選び取っていったのです。
こういう話を知るたびに、音楽の旅路というのはすごいなと思います。海を越え、言葉を超えて、まったく別の文化の中で愛される歌になっていく。音には、そういう力があるんですよ。
歌は教室を出て、街へ向かった
唱歌は、学校の壁の中だけにとどまりませんでした。
子どもたちは学校で習った歌を家に持って帰り、台所で、縁側で、歌い始めた。親たちがその歌を耳にする。近所の人が覚える。やがて歌は、地域の中で生き始めた。
「文部省唱歌」として1910年代以降に整備された曲集のなかには、私たちが今でも知っているものがたくさんあります。「故郷(ふるさと)」、「春が来た」、「朧月夜(おぼろづきよ)」。これらはすべて、学校教育から生まれた歌です。
明治から大正にかけて、クラシック音楽はまだほんの一部の人々のものでした。でも唱歌は違った。日本中の子どもたちが、同じ旋律を、同じ言葉で歌った。ひとつの共通の音楽的記憶が、この国に初めて生まれた瞬間でした。
それは、クラシックという大きな木の根っこが、この国の大地に静かに広がっていく瞬間でもあったと思うんです。演奏会のホールからではなく、教室の窓から、音楽文化は日本に届きはじめた。
次回は、その流れを受けて、ついに「日本人が書いた交響曲」が生まれる話を。山田耕筰という一人の夢追い人の物語です。
