日本とクラシック音楽の物語

昭和の夜明けと戦雲 ―― ラジオが運んだ音楽と「敵性音楽」の葛藤

ラジオという、魔法の箱

大正から昭和へ。元号が変わった1926年、日本のどこかのお茶の間に、不思議な箱が置かれるようになっていました。ラジオです。前年の1925年に東京放送局が開局し、日本初のラジオ放送が始まった。その電波は、またたく間に列島中に広がっていった。

私はよく思うんですよ――あの時代の人々が、ラジオのスピーカーから初めてオーケストラの音楽が流れてきた瞬間の驚きを。生まれて一度も演奏会場に足を運んだことのない人が、ベートーヴェンの交響曲を自宅で聴けるようになった。それはどれほど衝撃的な体験だったことか。私自身、演奏家として長年舞台に立ってきましたが、音楽が生まれて初めて「全国一斉」に届く時代が到来したのだと思うと、今でも鳥肌が立ちます。

昭和初期のクラシック熱

昭和初期、クラシック音楽はまだ「大正デモクラシー」の余熱の中にありました。東京では演奏会が盛んに開かれ、帝国劇場や日比谷公会堂には音楽を愛する市民が集まっていた。山田耕筰が率いる演奏団体は活動を続け、海外帰りの若い演奏家たちが次々と新しい音楽を持ち込んでいた。

ラジオの普及はその流れをさらに加速させた。NHK(1925年の東京放送局が1926年に社団法人日本放送協会となる)は交響楽の中継放送を積極的に行い、クラシック音楽はもはや一部の上流階級だけのものではなくなっていったんですよね。農村の人も、工場で働く人も、電波の届くところならどこでもベートーヴェンやモーツァルトを聴けるようになった。そういう意味では、昭和初期は日本のクラシック音楽史における、ひとつの黄金時代だったと言えるかもしれません。

時代の翳り――「敵性音楽」という言葉

でも、時代の空気は少しずつ変わっていったんです。1931年の満州事変、1937年の日中戦争勃発。戦争の影が、音楽の世界にも忍び込んでくる。

戦時色が強まるにつれて、ある奇妙な問いが浮かび上がってきました。「敵国の音楽を演奏することは許されるのか」という問いです。ドイツ・イタリアと三国同盟を結んでいた日本では、ベートーヴェンやブラームスは一応「同盟国の音楽」として扱われました。問題になったのは、英米の音楽です。「敵性音楽」という言葉が広まり、ジャズは事実上の禁止状態に追い込まれていった。

クラシック音楽の場合は少し複雑で――バッハもベートーヴェンも「ドイツ」の音楽だから演奏できる。でも、ショパンはどうだ、ドビュッシーは、チャイコフスキーは。現場の演奏家たちは、その狭間で日々苦悩していたことでしょう。音楽に国境はないはずなのに、政治が線を引こうとする。その不条理さは、音楽家としての私には本当に想像を絶するものがあります。

それでも音楽は鳴り続けた

驚くべきことに、戦時下でもクラシック音楽の演奏会は続いていました。むしろ政府も音楽の「精神高揚」効果を認識していて、ある意味では積極的に利用していた面もある。「音楽報国」という言葉が生まれ、演奏家たちは戦地での慰問演奏にも駆り出されていったんです。

NHKはこの時期も交響楽を放送し続けていた。スタジオで奏でられた音楽は、電波に乗って日本各地の家庭に届けられ、銃後の人々の心を支えた。どんな時代でも、音楽が人間にとって不可欠なものであることを、この時代の人々もどこかで知っていたのでしょう。そして、その「音楽の力」を政治が利用しようとすることで生まれる歪みもまた、音楽の歴史には繰り返し現れてくるテーマでもあります。

1945年――焼け野原に音楽が戻る日

そして1945年8月。戦争が終わりました。焼け野原の東京で、人々はまず生きることに必死だった。食べるものもなく、住む家もなく、先の見えない日々が続いた。

でも、信じられないことに、終戦からわずか数ヶ月後には、演奏会が再開され始めるんです。瓦礫の中に、音楽が戻ってくる。あの光景を想像するたびに、私は胸が熱くなります。人間は極限の状況でも、美しいものを求めずにはいられない。音楽という営みが、いかに人間の根っこに近いところにあるか、この事実が何よりも雄弁に語っているような気がしてならないんですよ。

戦後の日本で、クラシック音楽はどのように再生し、発展していったのか。占領期のアメリカ文化政策はどんな影響を与えたのか。そして、荒廃の中から世界的な演奏家たちが次々と生まれてくる「奇跡の時代」が始まります。次回は、その戦後の再生という物語をたどってみましょう。