日本とクラシック音楽の物語

戦時下のオーケストラ ―― 昭和・戦争とクラシック音楽の葛藤

輝きの終わりに、嵐の予感

大正デモクラシーの蜜月期を経て、昭和の幕が開いた1926年。東京にはすでに複数のオーケストラが生まれ、市民が洋楽を楽しむ土壌は確実に根づいていました。あの頃の活気を思うと、これから語ることが、いかに非情な時代の変転であったかを感じずにはいられません。

1931年の満洲事変、1937年の日中戦争。そして1941年、日米開戦――。時代は少しずつ、しかし確実に、クラシック音楽の世界にも暗い影を落とし始めたんです。コンサートホールに集まる人々の顔が、少しずつ変わっていく。そんな光景が目に浮かびます。

「敵性音楽」という奇妙な矛盾

「敵性音楽」という言葉をご存じでしょうか。太平洋戦争が激しくなるにつれ、アメリカやイギリスの音楽は「敵国の音楽」として演奏が禁じられるようになりました。ジャズはその最たるもので、ダンスホールから追放され、歌謡曲にも規制が及んでいきます。

でも――ここが実に面白い、というか皮肉というか――ドイツやオーストリアの音楽はどうだったでしょう。ベートーヴェン、ブラームス、シューベルト。彼らの祖国は日本の「同盟国」でした。だからドイツ音楽は、むしろ「同盟国の友好音楽」として生き延びたんですよ。

演奏家たちの心中を想像してみてください。バッハのマタイ受難曲を弾きながら「これは許される」と確認し、チャイコフスキーは「ロシア、まあいいか」と一部黙認され、ガーシュウィンは「敵国人の音楽、禁止」――そんな時代の空気の中で音楽を続けるということが、どれほど消耗することだったか。楽譜に向かいながら「これは弾いていいのか」と考えなければならない演奏家の苦しさは、想像するだけで胸が痛くなります。

新交響楽団、存続をかけた日々

現在のNHK交響楽団の前身にあたる「新交響楽団」は、そんな時代を生き延びた楽団のひとつです。1926年に改組されたこの楽団は、スポンサーを失いながらも、たびたびの財政難と格闘しながら演奏を続けました。

戦時中、政府はプロパガンダの道具として音楽を利用しようとしました。「国民精神総動員」の掛け声のもと、音楽は「銃後の国民を鼓舞するもの」でなければならない、という圧力が生まれます。演奏家たちは兵士慰問のために戦地へ赴き、あるいは工場労働者のために演奏しました。

私は楽器を弾く人間として、ここで少し立ち止まって考えることがあります。自分の信じる音楽を、誰かの政治的意図のために使われる――それは耐えられることなのだろうか、と。でも同時に、そのような状況でも音楽を続けた演奏家たちの姿に、ある種の意地のようなものを感じるんですよ。音楽そのものへの愛が、どんな時代にあっても消えなかった証として。

鳴門のほとりで鳴り響いたベートーヴェン

ここで、少し心が温まる話をさせてください。

現在、大晦日や年末になるとあちこちでベートーヴェンの交響曲第9番、いわゆる「第九」が演奏されますよね。あの「歓喜の歌」です。なぜ日本でこれほど「第九=年末」が定着したのか、不思議に思ったことはありませんか。

その起源は、第一次世界大戦中の1918年にさかのぼります。徳島県鳴門市大麻町板東に、「板東俘虜収容所」というドイツ兵捕虜の収容所がありました。所長・松江豊寿(まつえとよひさ)中佐は人道的な処遇で知られ、捕虜たちは農業や文化活動をほぼ自由に行うことができたんです。

1918年6月1日――日本で初めて、ベートーヴェンの第九交響曲が全曲演奏されたのは、この収容所の中でした。捕虜たちによる「俘虜オーケストラ」が、地元の徳島の人々を招いて全楽章を演奏したのです。

敵国の音楽家たちが、戦争の只中で、敵国の地で、愛する音楽を鳴らした――そのことの意味を、私はいまも楽器を弾くたびに思い返すことがあります。音楽には国境がない、と言うのは簡単ですが、それを実際に体現した人々が確かにいた。その事実は、百年経ったいまも、何かを語りかけてきます。

戦争の傷跡と、それでも続いた音楽

1945年8月15日、終戦。東京の音楽ホールは空襲で焼け、楽器は失われ、音楽家たちはバラバラになりました。それでも――驚くことに――終戦からわずか数ヶ月後には、演奏会が再開されているんですよ。

焼け野原の中で、人々は音楽を求めた。そしてそれに応えた演奏家たちがいた。廃墟の中でベートーヴェンを弾く――その光景を想像するだけで、胸が締めつけられます。

クラシック音楽は、この戦争という試練をくぐり抜けながら、日本の土にさらに深く根を張っていきます。次回は、その焼け跡から立ち上がった「戦後クラシック音楽の夜明け」をお話しましょう。占領軍GHQが、意図せず日本のクラシック音楽の姿を変えていく――そんな、少し意外な物語が待っています。