大正の終わりに、何かが変わっていった
前回、私は大正デモクラシーの時代、クラシック音楽がいかに日本の市民生活に根を張っていったかをお話しました。あの時代の空気は、今から思い返すと、ほんとうに自由だった。西洋音楽が「異国の珍しいもの」から「私たちの文化」に変わりつつあった、その瞬間とでも言いましょうか。
ところが1926年、昭和という新しい時代が始まると、その空気が少しずつ変わっていくんですね。
最初はわかりにくい変化でした。でも1930年代に入ると、軍国主義の影が文化の隅々にまで忍び込んでくる。私が指揮者の先輩から聞いた話ですが、「あの頃の音楽家たちは、毎日綱渡りをしていたようなものだった」と言うんですよ。その言葉が、ずっと頭に残っています。
「敵性音楽」という言葉の登場
太平洋戦争が始まった1941年以降、音楽の世界にも「敵性音楽」という概念が生まれます。アメリカやイギリスといった連合国の音楽は「敵の音楽」として忌避されるようになった。ジャズはもちろん、英語の歌詞を持つ曲はそのままでは演奏できなくなっていきます。
では、クラシック音楽はどうだったか。
ここが歴史的に興味深いところで——ドイツとオーストリアの音楽は、日独伊三国同盟という外交的な事情もあって、比較的容認されていたんです。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー……これらは演奏できた。むしろ「同盟国の偉大な文化」として称えられることさえあった。
一方でショパン(ポーランド)やチャイコフスキー(ロシア)はグレーゾーン。そして英米の作曲家たちの音楽は、舞台から静かに消えていった。演奏会のプログラムを見ると、そこには歴史の圧力が透けて見えるようで、少し息苦しい気持ちになります。
それでも音楽家たちは弾き続けた
1926年に創立された新交響楽団——のちのNHK交響楽団の前身——は、この時代を生き延びた日本のオーケストラの象徴です。
戦時下でも、彼らは演奏を続けました。プログラムの内容には制約があった。それでもベートーヴェンの交響曲が会場に鳴り響いた。防空壕が身近になった時代に、市民たちはコンサートに足を運んだんですよ。
なぜだったんでしょうか。
私はこう思うんです——音楽は、人が一番苦しいときにこそ、人の傍に寄り添うものなんじゃないかと。戦争という極限状態の中で美しい音楽を聴くことは、まだ自分が人間であることを確かめるような行為だったのかもしれない。そう考えると、あの時代に演奏し続けた音楽家たちの姿が、私には単なる「仕事」ではなく、ある種の使命感として見えてくる。
作曲家たちの葛藤
山田耕筰が日本人初の交響曲を書いてから約20年。その弟子や同時代の作曲家たちは、今度は全く異なる問いと向き合っていました。
「国家のために音楽を作れ」という圧力です。
軍歌や愛国歌謡の作曲を求められる音楽家は少なくなかった。プロの音楽家として生きていくためには、時代の要求に応えなければならない現実がある。これはとても難しい問題で、善悪の二元論では語れないものがあります。
戦後、この時期に「協力」した音楽家たちへの評価は様々に割れることになります。でも私には、あの時代の音楽家たちを断罪する気持ちにはなれない。自分があの時代に生きていたら、どうしたかと想像するだけで、胸が痛くなりますから。
廃墟から、音楽はまた響き始めた
1945年8月15日、終戦。
焦土と化した東京、大阪、そして日本中の都市で、驚くべきことが起きます。音楽家たちが、すぐに楽器を取り出して演奏を始めたんですよ。
闇市のそばで、焼け残った建物の中で、屋外の広場で——音楽が鳴り始めた。これはもう、日本人とクラシック音楽の間に、何か深い絆が生まれていた証だと思います。明治の文明開化から約80年。かつて「外来品」だったクラシック音楽は、日本人の魂の一部になっていた。
新交響楽団は戦後に再編され、1951年にNHK交響楽団として新たな出発を果たします。その音は今も東京から世界に響き続けています。
次回は、その戦後の復興の中で生まれた、日本のクラシック音楽の「奇跡」ともいえる物語をお伝えしようと思っています。廃墟の中から世界水準のオーケストラが育っていく、そのドラマをぜひ一緒にたどってください。
