大正の夢の終わりに
大正デモクラシーの華やかな季節が終わりを告げ、昭和という新しい時代が幕を開けた1926年。前回お話しした大正期の熱気――コンサートホールに集う人々、レコードから流れる西洋音楽、そして山田耕筰たちが夢見た「日本のクラシック音楽」――その夢は昭和に入ってからも確かに続いていました。ただし、空気は少しずつ変わり始めていたんですよ。
大正末期に起きた関東大震災(1923年)は、東京の音楽シーンにも深刻なダメージを与えました。コンサートホールや劇場が瓦礫と化し、積み上げてきた文化的インフラが一夜にして失われた。それでも音楽家たちは立ち上がりました。むしろあの震災が、「音楽は必要だ、もう一度作り直そう」という情熱を呼び覚ましたのかもしれません。
1926年、楽団誕生
震災から三年後の1926年、日本交響楽団が創設されました。これが後のNHK交響楽団の前身です。単なる演奏団体の誕生ではなかった。日本人音楽家たちが本格的なオーケストラを自らの手で維持する――そういう意志の表れだったと私は思うんですよ。
今でも私は演奏前に楽器を持ち、チューニングをする瞬間の独特の緊張感を大切にしています。弓を弦に当てる前の、あの静止した時間。「これから音楽を作るんだ」という高揚と覚悟が混ざり合った感覚。1920年代の音楽家たちも、きっと同じ気持ちで弦を張り直したり、管楽器を組み上げたりしていたはずです。
ラジオという新しい波
1925年、日本でラジオ放送が始まりました。これはクラシック音楽の普及にとって革命的な出来事でした。コンサートホールに足を運べない地方の人たちにも、ベートーヴェンのシンフォニーが届くようになったんです。明治に唱歌が学校を通じて音楽を広めたように、ラジオは家庭の茶の間に音楽を運んだ。
ただ、ラジオには別の側面もありました。放送局が「国民に届ける音楽」を選ぶ立場を持ったということ。これが後の時代に、どんな意味を持つことになるか――1920年代の音楽家たちはまだ知る由もなかったでしょう。
軍靴の音が近づく中で
1930年代に入ると、社会の雰囲気は大きく変わっていきます。1931年の満州事変、1937年の日中戦争全面化。音楽の世界にも「日本的なもの」「国民精神を鼓舞するもの」を求める声が大きくなっていきました。
この時代の音楽家たちの苦悩を、私は他人事として考えられないんですよ。「時代の要請に応えるべきか、自分の信じる音楽を守るべきか」――それは程度の差こそあれ、どの時代の演奏家も直面しうる問いです。私自身、コンクールで「受けやすい解釈」と「自分が信じる解釈」のあいだで迷ったことは何度もある。あの時代の音楽家たちが直面したのは、その問いの、はるかに過酷なかたちでした。
「国民音楽」という圧力
戦時体制が強まる中、一部の音楽家たちは「国民音楽」の創造を求められました。西洋の技法を使いながら、日本の精神を表現する音楽。それ自体は必ずしも悪いものではありませんでした。問題は「誰のために」「何のために」という目的が、徐々に歪んでいったことです。
ドイツ語やイタリア語で書かれたオペラは「敵性音楽」として演奏が制限されるようになっていきます。皮肉なことに、日本が同盟を結んでいたドイツ・オーストリアの音楽――ベートーヴェンやブラームス、ワーグナー――は「友邦の文化」として許容されていました。音楽に国籍や政治的レッテルを貼ること自体の矛盾が、そこに露わになっていますよね。
外国人音楽家たちの去就
明治以来、日本の音楽シーンを支えてきた外国人音楽家たちも、この時期に重大な選択を迫られました。ドイツ人やオーストリア人の中には同盟国の国民として比較的活動を続けた人もいましたが、フランス人、イギリス人、アメリカ人の音楽家たちは多くが日本を離れることを余儀なくされました。
半世紀かけて積み上げてきた国際的な音楽文化の交流が、戦争によって断ち切られていく。その喪失感は、当時の日本人音楽家たちにとっても深いものだったはずです。師事していた先生が突然いなくなる。一緒に舞台に立っていた仲間が去っていく。音楽とは本来、国境を超えるものだったはずなのに。
それでも楽器は鳴り続けた
しかし、どんな時代にあっても音楽家たちは演奏を続けました。日本交響楽団は戦時中も演奏会を開いていた。物資が欠乏し、楽器の弦が手に入りにくくなっても、空襲警報が鳴り響く街でも、舞台に立ち続けた人たちがいた。
これを「時代への迎合」と見ることもできます。でも私には、それだけじゃないと思えるんですよ。音楽を愛する者として「たとえ世界が燃えていても、この美しさを絶やしてはいけない」という切実な思いがあったのではないか、と。音楽は生きることの一部だから、演奏を続けることが、人間であることへの抵抗でもあったのかもしれない。
廃墟の中から、再び
1945年8月、戦争が終わりました。東京の街は焼け野原となり、コンサートホールの多くも失われていた。しかしその年の秋には、もう演奏会が開かれていたんです。
「なぜそんなに早く?」と思いますよね。私はそこに、音楽そのものが持つ力を感じずにはいられません。人間が生きていくために、パンと同じくらい音楽が必要だということを、あの時代の人たちは体で知っていたのかもしれない。焼け跡の中でバイオリンを取り出した音楽家の姿を想像すると、今でも胸が締めつけられます。
日本交響楽団は1951年にNHK交響楽団と名を改め、現在に至る日本を代表するオーケストラとして歩み続けています。あの嵐の時代を生き抜いた楽団が、今も東京の舞台で鳴り響いている。演奏会でN響の音を聴くたびに、私はその長い歴史の重さを感じるんですよ。
次回へ
廃墟から立ち上がったとき、日本のクラシック音楽は新しいステージへと踏み出します。次回は、戦後の復興とともに花開いた日本のクラシック音楽シーン――そして、世界へと羽ばたいていく日本人音楽家たちの物語をお伝えします。
