日本とクラシック音楽の物語

新交響楽団の夜明け ―― ラジオが運んだ昭和のクラシック

指揮台に立つ、ということ

指揮台に立ったことがある方は、あの独特の感覚をわかっていただけると思います。団員の視線が一斉に自分に向かってくる、あの緊張と昂揚。私が初めてアマチュアオーケストラで指揮棒を振ったのは二十代の頃でしたが、あの瞬間のことは今でも体が覚えています。

でも、百年前の日本では、「プロのオーケストラ」という存在そのものが、まだほとんどの人には縁遠いものでした。大正末期から昭和の幕開けにかけて、その状況は劇的に変わっていくんですよ。

新交響楽団の誕生 ―― 1926年という年

1926年(大正15年・昭和元年)。この年は日本にとって、いくつもの意味で節目の年でした。元号が大正から昭和へと変わり、時代の空気ごと変わっていく、あの感じ。そしてこの年の10月、東京に「新交響楽団」が創立されました。これが後に日本放送協会(NHK)の支援を受けてNHK交響楽団、つまり「N響」へと発展していく、日本最初のプロのオーケストラです。

創立に尽力したのは、ロシア出身の指揮者エマヌエル・メッテル。山田耕筰をはじめとする日本の音楽家たちと協力しながら、「職業として音楽で生きられる場」を作ろうとしたんです。当時の団員たちの多くは、音楽学校を出ても演奏だけで生計を立てることが難しかった。新交響楽団は、そんな音楽家たちの夢の器でした。

この楽団が生まれた背景には、前回お話しした大正デモクラシーの文化的な高揚があります。市民がコンサートホールへ足を運ぶようになり、音楽の需要が確かに高まっていた。その土台の上に、ようやくプロの演奏家が息づける場所ができたんです。

ラジオという革命

新交響楽団が生まれたのと同じ時期、日本にはもう一つの革命が起きていました。ラジオ放送の開始です。

1925年(大正14年)、東京放送局(後のNHK東京)が本放送を開始します。最初の放送日、アナウンサーが「アー、アー、アー、聞こえますか」と呼びかけた、あの歴史的な瞬間。家に居ながらにして音楽が聴けるというのは、当時の人々にとって本当に魔法のような体験だったと思います。

私は仕事柄、古いラジオ放送の録音を聴くことがあります。音質はもちろん粗い。でも、そのスピーカーから流れてくる音楽を、かつて多くの人が茶の間で耳を傾けていたと想像すると、なんとも言えない感慨があるんですよね。演奏家にとっても聴衆にとっても、ラジオは新しい「出会いの場」だったはずです。

音楽が「日常」になっていく

ラジオの普及は、クラシック音楽の聴衆を劇的に広げました。コンサートホールに足を運ばなくても、レコードを買わなくても、ラジオのスイッチを入れれば交響曲が流れてくる。それまで「上流階級の嗜み」だったクラシック音楽が、少しずつ市井の人々の生活に溶け込んでいったんです。

新交響楽団はラジオ放送と深く結びつきながら活動を広げていきます。1927年には日本放送協会(NHK)が正式に発足し、オーケストラとラジオはいわば「運命共同体」として昭和の音楽文化を形作っていきます。演奏家にとっても、ラジオは単なる宣伝媒体ではなく、自分たちの音楽を日本全国に届ける、まったく新しいステージでした。

昭和という時代の予感

大正デモクラシーの高揚感の中で育ったクラシック音楽文化は、昭和という新しい時代にその根をさらに深く張っていきます。プロのオーケストラが生まれ、ラジオが音楽を運び、次第に日本の音楽地図が塗り替えられていく。

ただ、昭和という時代は豊かな文化の開花と同時に、やがて暗い影も帯びていきます。音楽もまた、時代の波に揺さぶられながら、日本独自の歩みを続けていくことになるんですよ。次回は、昭和初期の音楽界をさらに深掘りしながら、戦争という時代がクラシック音楽と演奏家たちにどんな影を落としていったか、そこに焦点を当ててみたいと思います。