日本とクラシック音楽の物語

ラジオが奏でた夢 ―― 昭和初期、クラシック音楽が茶の間にやってきた

帝都が燃えた日

1923年9月1日。この日付を聞いて、ピンとくる方も多いでしょう。関東大震災です。マグニチュード7.9の大地震が相模湾沖で発生し、東京・横浜を中心に壊滅的な被害をもたらしました。

前回お話しした大正デモクラシーの熱気のなか、東京には多くの演奏会場が生まれ、クラシック音楽は「文化の花」として咲き誇っていました。それが一瞬にして灰燼に帰してしまった。

私が初めてこの史実をきちんと調べたのは、ある先輩音楽家から「震災後、音楽家たちはどうやって生きたか知っているか」と問われたときでした。答えられない自分が恥ずかしかったことを、今でも覚えています。

廃墟の中に響いた音

火災で多くのコンサートホールが失われ、楽器も楽譜も燃えてしまった。演奏家たちは仕事を失い、なかには故郷に帰った者、外国に渡った者もいたといいます。

それでも、音楽は止まりませんでした。焼け野原となった東京の各所で、バラック建ての集会所や野外で演奏会が開かれた記録が残っています。人々が最も苦しいときに求めるもののひとつが、音楽なのだということ——これは、今も昔も変わらないんですよね。

復興の槌音が響くなか、音楽家たちも新しい場所を探し、少しずつ演奏の場を取り戻していきました。しかしそれ以上に大きな変化が、別の方向からやってきたんです。

ラジオという「魔法の箱」の登場

1925年3月22日、東京放送局(JOAK、現在のNHKの前身)が日本初のラジオ本放送を開始しました。

「ラジオ」と聞いても、今の若い方にはピンとこないかもしれません。でも、当時の人々にとってこれは本当に「魔法の箱」だったんです。どこにいても、家の中に居ながらにして、音楽が聴ける。コンサートホールに足を運ばなくても、演奏家の音が直接耳に届く。

放送開始間もなくから、クラシック音楽はラジオの重要なコンテンツとなりました。当初の受信契約者は東京だけで数千件程度でしたが、それが数年で全国数十万件へと急増していきます。クラシック音楽を生で聴く機会など一生なかったかもしれない人々の耳に、ベートーヴェンが、モーツァルトが、届くようになったんですよ。

ホールの外へ、茶の間の中へ

それまでクラシックのコンサートといえば、ある程度の教養と財力が必要な「上流の娯楽」という側面がありました。正装して出かけ、ホールの厳かな雰囲気のなかで緊張しながら聴く——そういうイメージです。ところがラジオは、着物姿のまま、お茶を飲みながら、家族と話しながら聴けるものでした。

この「敷居の低さ」が革命的だったと私は思います。音楽は「聴きに行くもの」から「向こうからやってくるもの」になったわけですから。

1926年には東京放送管弦楽団(後のNHK交響楽団の前身のひとつ)が組織され、ラジオを通じた本格的なオーケストラ放送が始まります。ベートーヴェンの交響曲が、全国の茶の間に流れる時代がやってきたんですよ。

「聴く耳」が育っていった

ラジオの普及と並行して、レコードも急速に広まっていきました。1920年代後半から30年代にかけて、国内でのレコード生産量は飛躍的に伸びます。外国の一流オーケストラや演奏家の演奏を、いつでも家で聴ける——そんな時代が来たわけです。

こうした環境の変化は、日本の「クラシック音楽を聴く耳」を急速に育てていきました。聴衆の質が上がれば、演奏家も切磋琢磨する。日本人演奏家のレベルも、この時代に目覚ましく向上したといわれています。

前の記事で触れた山田耕筰も、ラジオ放送に積極的に関わりました。彼の指揮する演奏がラジオで流れ、全国の人々が初めて「日本人指揮者」の棒を通じてクラシック音楽を体験する——そんな場面があったことを想像すると、なんとも感慨深いものがあります。

次回へ――戦争という嵐が近づく

こうして昭和初期、クラシック音楽は「特別な人のもの」から「茶の間の文化」へと変わっていきました。ラジオとレコードという二つのメディアが、日本人とクラシック音楽の距離を劇的に縮めたんです。

しかし、この蜜月はやがて暗い影に覆われていきます。1930年代に入ると、日本は軍国主義の道を歩み始め、文化の世界にも「国策」の波が押し寄せてくる。「敵性音楽」という言葉が登場し、ベートーヴェンの交響曲ですら演奏が問題視されるような時代が来るとは、当時誰が予想したでしょうか。

次回は、戦時下に置かれた日本のクラシック音楽——それでも音楽家たちが音を鳴らし続けた理由——についてお話しします。