大正の終わりに、時代が変わる予感があった
前回お話しした大正デモクラシーの蜜月時代――コンサートホールに人が集い、洋楽が若者たちの心を掴んでいったあの熱気を思うとき、私はいつも「でも、コンサートに行ける人って、実はほんの一部だったんだよな」と感じてしまうんですよ。
東京や大阪の都市部に住む人、余裕のある人たちがホールに足を運ぶ。それは確かな前進でした。でも日本列島の隅々まで、たとえば東北の小さな町や九州の農村まで音楽が届くには、何か別の力が必要だった。
その「別の力」が、1925年(大正14年)の春、突然この国に現れるんです。
「JOAK、ただいまより放送を開始いたします」
1925年3月22日、東京放送局(後のNHK東京放送局)がラジオ放送を開始しました。最初の試験放送の言葉は「JOAK、ただいまより放送を開始いたします」。その声が電波に乗って東京の空に流れたとき、日本の音楽史は静かに、でも確実に新しいページをめくったんです。
私が演奏家として常々思うのは、音楽というものは「聴かれてはじめて完成する」ということ。どんなに素晴らしい演奏も、ホールの客席に届かなければただの空気の振動です。ラジオはその「届ける」という行為を、一気に何千倍、何万倍にも拡張する道具だった。
当初のラジオ受信機は高価で、普及するまでには時間がかかりました。でも着実に受信契約者数は増えていく。1926年(昭和元年)には社団法人日本放送協会(NHK)が設立され、東京・大阪・名古屋の三局がひとつになって、全国放送への道が開かれていきます。
電波に乗った交響楽団
ラジオで何が流れたか、ご想像できますか?
ニュース、天気予報、講談、浪曲……そういった番組が人気を集める中、クラシック音楽も早い段階から放送されていたんですよ。当時の記録を見ると、ベートーヴェンやシューベルト、ブラームスといった西洋の大作曲家の作品が、ラジオを通じて日本中の家庭に届けられていました。
コンサートに行くには着替えて、電車に乗って、チケットを買って……という手間が必要です。でもラジオなら、台所仕事をしながら、布団の中で横になりながら、交響曲が聴ける。これは革命でした。
大正末から昭和初期にかけて活躍した山田耕筰(第4回でお話ししましたね)も、このラジオ放送に積極的に関わりました。彼は日本のクラシック音楽界の顔として、放送という新しいメディアの可能性をいち早く見抜いていたんです。
聴衆が見えない恐怖と喜び
余談になりますが、私自身もラジオやテレビの収録で演奏することがあります。マイクの前に座って弾き始めると、いつも不思議な感覚に包まれるんです。目の前に聴衆がいない。拍手もない。でも、電波の向こう側には何千、何万という人が耳を傾けているかもしれない。
昭和初期の音楽家たちも、きっと同じ感覚を持っていたと思うんですよ。「見えない客席」という、それまで誰も体験したことのない演奏環境の中で、彼らは一音一音を丁寧に紡いでいった。その緊張感と使命感は、想像するだけで胸に迫るものがあります。
ラジオが育てた「クラシック音楽の耳」
ラジオ普及がもたらした最大の効果は、日本人の音楽的な耳を鍛えたことではないかと私は思っています。
何度も繰り返し同じ曲を聴くことができる。今日ラジオでベートーヴェンの第九を聴いて、来週また別の演奏が流れてくる。比べて、考えて、好きになっていく。そういうサイクルが、都会だけでなく地方にも生まれ始めた。
昭和初期の受信契約者数の伸びを見ると、音楽ファンの裾野がいかに広がっていったかがわかります。1930年代になると、放送局とオーケストラは密接な関係を築くようになり、やがて日本のオーケストラ文化の礎となっていくんです。
でも、時代には影も忍び寄っていた
しかし……昭和という時代は、光だけではありませんでした。
1930年代に入ると、軍部の台頭とともに社会の空気が重くなっていく。「敵性音楽」という言葉が生まれ、枢軸国との同盟を背景に、英米の音楽には圧力がかかっていきます。ラジオというメディアは、音楽を広める道具であると同時に、国家が情報を統制する道具にもなり得たんです。
電波が交響曲を運んだ時代と、電波が戦意高揚を叫んだ時代は、紙一重でつながっていた。クラシック音楽は、政治の嵐の中でどのように生き残り、またどのように傷ついたのか――次回はその暗い、でも避けては通れない物語をお話ししようと思います。
