日本とクラシック音楽の物語

帝都の響き ―― 大正デモクラシーとクラシック音楽の蜜月

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ピアノの音が、路地裏の長屋にまで届いていた時代があったんですよ。

大正時代というと、どんなイメージをお持ちでしょうか。モボ・モガ、円本ブーム、そして大震災――波乱に満ちた時代でしたが、音楽の世界では、これほど豊かな季節はなかったかもしれません。

民主主義の風が音楽を解放した

明治期に整備された東京音楽学校は、いわば「高嶺の花」でした。クラシックコンサートといえば、皇族や華族が居並ぶ格式ばった催しで、市井の人々には縁遠い世界です。ところが大正に入ると、風向きが変わっていきます。

大正デモクラシーの潮流は、文化にも民主化をもたらしました。「芸術は一部の人間のものではない」という意識が芽生え、コンサートホールの扉が少しずつ広く開かれていく。入場料が下がり、演奏会の回数が増え、新聞がクラシック批評を掲載するようになりました。

私が音楽の教科書を読み返していて驚くのは、大正期の聴衆の「熱さ」なんですよ。演奏後の議論が喫茶店で深夜まで続いたり、演奏家に手紙を書き送ったり。今の私たちとそう変わらない、音楽を愛する普通の人々の姿がそこにある。

ヤマハとカワイが生まれた時代

大正期はまた、日本の音楽産業が本格的に動き出した時代でもあります。山葉寅楠が明治に興したヤマハ(日本楽器製造)は、大正期に量産ピアノの製造体制を確立し、家庭へのピアノ普及を牽引します。河合楽器製作所もこの時代に産声を上げています。

ピアノが「一部の裕福な家庭の装飾品」から「習い事の道具」へと変わっていく過程、その背景にあったのが大正デモクラシーという時代の空気でした。娘にピアノを習わせることが、新中産階級の夢になっていったんですよね。

宝塚と山田耕筰の共鳴

大正3年(1914年)、宝塚少女歌劇団が旗揚げします。洋楽の要素をふんだんに取り入れたこの新しい芸術形式は、大衆とクラシックをつなぐ架け橋として機能しました。一方、前回お話しした山田耕筰は、この時代に数々の歌曲を発表し、日本語の美しさと西洋音楽のハーモニーを探求し続けていました。

私が特に好きなのは、山田の「この道」(北原白秋の詩)なんですが、あの素朴な美しさの中に、大正という時代の夢と哀愁が凝縮されているような気がしてならないんです。

そして、大震災が来た

しかし、大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が東京を一変させます。コンサートホールも、楽器商も、多くの音楽の舞台が失われました。

それでも音楽は消えなかった。瓦礫の中から復興コンサートが開かれ、音楽が人々の心を支える力を持つことが、改めて証明されました。次回はその「復興」の物語と、昭和という新しい時代がクラシックにもたらしたものを辿ってみたいと思います。

大正という時代は、クラシック音楽が日本に「土着化」していく、その最も重要な章だったと私は思っています。