日本とクラシック音楽の物語

昭和のラジオが運んだ交響楽 ―― 茶の間に届いたウィーンの音

ラジオが変えた「音楽を聴く」という体験

1925年3月22日、東京・芝浦から日本初のラジオ放送が流れました。「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」――あの歴史的な第一声を聞きながら、私はいつも思うんですよ。この瞬間、音楽との関係がどれほど劇的に変わったか、当時の人々はわかっていただろうか、と。

それまでクラシック音楽というのは、コンサートホールに足を運んだ人だけが聴けるものでした。高い入場料を払って、正装して、静粛に鑑賞する――どこか敷居の高い文化だった。でも、ラジオが登場したとたん、その壁が一気に崩れるんですね。台所で夕飯の支度をしながら、縁側で夕涼みしながら、交響曲が聴ける。そんな日常がいきなり始まったわけです。

新交響楽団の誕生と昭和の幕開け

ラジオ放送が始まった翌年の1926年、日本に本格的な交響楽団が誕生します。のちにNHK交響楽団となる「新交響楽団」です。前回お話しした山田耕筰の夢を受け継ぎながら、昭和という新しい時代の幕開けとともに、日本のオーケストラ文化は確かな歩みを始めました。

設立の中心となったのは、ヴァイオリニストの近衛秀麿。公爵家の出身でありながら、ドイツ・ベルリンで指揮を学んだこの人物が、三十人ほどの楽員を集めて立ち上げた楽団が、その後百年近くにわたって日本のオーケストラの頂点に立つことになるんですから、歴史というのは不思議なものですよね。

茶の間に届いたウィーンの夢

ラジオと交響楽団の組み合わせは、まさに革命でした。東京の演奏会場で鳴り響くベートーヴェンブラームスが、電波に乗って日本全国の家庭に届く。農村の茶の間でも、工場の休憩室でも、初めてオーケストラの音色を耳にした人たちがいたはずです。

演奏家として思うのは、あの時代の聴衆が経験した「驚き」の質が、今とはまるで違ったということです。私たちは生まれた時からCDもYouTubeも当たり前にある世界で育ちましたが、生まれて初めてヴァイオリンやチェロの音色を聴いた瞬間の衝撃というのは、きっと想像を絶するものだったはずで。

レコードという「音の缶詰」

ラジオと並んで、この時代のもう一つの主役がレコードです。当時の人々は蓄音機を「ちくおんき」と呼び、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの演奏を「音の缶詰」として愛でました。ちょっと上の中産階級の家には、大切に磨かれた蓄音機が応接間に置かれていたといいます。

コロムビアやビクターといったレコード会社が日本市場に参入し、海外の名演奏家たちの録音が次々と輸入された。山田耕筰が夢見た「西洋音楽を日本に根付かせる」という目標が、まさにこの時期、確実に実現しつつあったんですよね。

輝かしき昭和初期と、迫りくる影

1930年代に入ると、東京にはいくつもの演奏会場が建ち並び、海外から一流の演奏家が次々と来日しました。ヤッシャ・ハイフェッツ、パブロ・カザルス、ヨーゼフ・シゲティ――今の私たちが伝説と仰ぐような名前が、実際に日本の舞台に立ったんです。当時の聴衆はどれほど興奮したことか。

でも、その輝きの陰に、じわじわと暗い影が忍び寄っていました。1931年の満州事変、1937年の日中戦争勃発。軍国主義の台頭とともに、「西洋音楽」という言葉自体が政治的な問題をはらむようになっていきます。

ドイツやイタリアの音楽は「枢軸国の文化」として一時は保護されながらも、英米の音楽は「敵性音楽」として排斥されていく。ジャズは禁じられ、楽器の名前さえ日本語に言い換えることを求められた時代が来ます。ピアノを「洋琴(ようきん)」と呼ぶようになったのも、あの頃のことでした。ウィーンの音が茶の間に届いた夢のような時代は、意外にも短く、あっけなく幕を閉じていくことになるんですよ。

音楽家たちは何を想ったか

このシリーズを書くたびに、私はいつも演奏家の目線で考えてしまいます。懸命に西洋音楽を学び、ヨーロッパに留学し、日本に持ち帰ったその芸術が「敵の文化」と呼ばれていく。その葛藤はどれほど深かったか。舞台に立つことも録音を出すことも難しくなっていく中で、それでも彼らは音楽を手放さなかった。

次回は、戦時下においてもひそかに生き続けたクラシック音楽の物語、そして終戦とともに再び花開いた奇跡のような復興劇をお話しできればと思っています。あの焼け跡の中で、人々はなぜ音楽を求めたのか――きっと、今を生きる私たちにとっても無縁ではない話ですよ。