日本とクラシック音楽の物語

昭和の夜明けと新交響楽団 ―― ラジオが運んだクラシックの夢

大正が終わり、昭和が始まった年に

1926年12月、大正天皇が崩御され、日本は昭和という新しい時代へと入りました。歴史の教科書では「激動の昭和」と称される、その幕開けの年に——実は日本のクラシック音楽にとって、とても大切な出来事が起きているんですよ。

その年の10月、東京に一つのオーケストラが産声を上げました。「新交響楽団」。後にNHK交響楽団へと発展する、日本最古の本格的なプロフェッショナル・オーケストラの誕生です。

私がこのことを考えると、いつも不思議な感慨を覚えます。時代が大きく動こうとしているまさにその瞬間に、音楽家たちはステージに立ち、弦を弾き、管を吹き続けていたんですね。人間にとって音楽とは何なのか、そんなことを深く考えさせられます。

近衛秀麿という人物

新交響楽団を語るとき、欠かせない人物がいます。近衛秀麿(このえ・ひでまろ)——そう、あの近衛文麿元首相の弟です。が、この人は政治家ではなく、骨の髄まで音楽家でした。

ヴァイオリンを学び、作曲も手がけ、ヨーロッパで指揮法を修めて帰国した近衛は、「日本にも本物のオーケストラを作りたい」という情熱を胸に、東京フィルハーモニー会の演奏者たちを集めて新交響楽団を旗揚げします。当時の日本で、フルサイズのオーケストラを職業として維持しようというのは、正直なところ、かなり無謀な夢だったと思います。

私自身、若い頃にオーケストラに関わった経験がありますが、演奏者一人ひとりが「これで食べていける」という環境を整えることがいかに大変か、身に染みてわかっています。明治・大正を経て、それがようやく形になってきた——日本の音楽史における、静かだけれど確かな革命でした。

ラジオと音楽の出会い

1926年にはもう一つ、音楽の世界を変える出来事がありました。前年(1925年)に始まったラジオ放送が、徐々に日本全国に広まっていったのです。日本放送協会(NHKの前身)が正式に設立されたのもまさにこの頃のこと。

それまでクラシック音楽を聴くには、コンサートホールへ足を運ぶしかありませんでした。東京や大阪に住んでいなければ、生演奏を聴く機会さえ滅多になかった時代です。それが——ラジオのスピーカーから、家の茶の間に、ベートーヴェンもモーツァルトも流れ込んでくるようになった。これはもう、革命と呼ぶほかない変化でしたよね。

NHKと新交響楽団の縁も、このラジオ放送から始まりました。後に「新響」は「NHK交響楽団」という名前を冠することになりますが、それはずっと先の話。まずはラジオの電波に乗って、クラシック音楽が日本列島の津々浦々へと届き始めた——そのことの意味の大きさを、私たちはもっと噛み締めていいと思うんです。

時代の波の中で

しかし、昭和の時代は穏やかではありませんでした。1930年代に入ると日本は軍国主義へと傾いていき、やがて戦争の時代が訪れます。

音楽家たちは、その激流の中でどう生きたのか。「敵性音楽」という言葉が生まれ、かつての同盟国ドイツ・オーストリアの音楽は演奏できるが、イギリスやアメリカの音楽は……といった、苦しい状況も生まれていきます。それでも、ステージに立ち続けた人たちがいた。

新交響楽団もまた、時代の波に翻弄されながら演奏を続けました。戦況が激しくなる中でもコンサートを開き、音楽を通じて人々の心に寄り添おうとした演奏家たちの姿は、今思い返しても胸に迫るものがあります。

根を張ったクラシック音楽

大正デモクラシーの開花期を経て、昭和の波乱の幕開けの中でも、日本のクラシック音楽は確実に「根」を張り始めていました。プロのオーケストラが存在し、ラジオが音楽を全国に届け、各地で音楽愛好家のサークルが生まれていった。

明治初期にお雇い外国人が持ち込んだ西洋音楽は、もはや「外来のもの」ではなく、日本人の生活の中に溶け込みつつあった。その過程は決して滑らかではなかったけれど、それでも着実に続いていたんです。

次回は、この時代にさらに深く足を踏み込んで、戦時下における日本のクラシック音楽界の複雑な姿——演奏家たちが何を信じ、何を守ろうとしたのか——を辿ってみたいと思います。音楽と戦争の、切っても切れない因縁の話です。