日本とクラシック音楽の物語

ラジオが運んだ交響楽 ―― 昭和という時代の幕開け

ラジオという魔法の箱

一九二五年三月、東京に「ラジオ放送」が始まった日のことを、少しだけ想像してみてください。

当時の人々が初めてスピーカーから流れてくる音楽を耳にしたとき、どれほどの衝撃を受けたことか。私は演奏家として、これまで何百回とコンサートホールの舞台に立ってきました。でも正直に言うと、あの時代のリスナーが感じたであろう「驚き」を、今の私たちはもう体験できないんですよね。生演奏しか知らなかった人たちが、家の中で突然オーケストラの音楽を聴いた――その衝撃は、想像するだけで鳥肌が立ちます。

東京放送局(後のNHK)の第一声からほどなく、ラジオは音楽を届ける革命的なメディアになっていきました。それまでクラシック音楽を聴くには、コンサートホールまで足を運ぶしかなかった。レコードもありましたが、高価なうえに音質も限られていた。でもラジオは違った。電波に乗った音楽が、茶の間に、台所に、農村の一軒家にまで飛び込んでくるんですよ。

新交響楽団、昭和と同じ年に生まれる

前回お話しした山田耕筰の夢は、その後も日本の音楽界を動かし続けていました。一九二六年――昭和という新しい元号が始まったまさにその年に、「新交響楽団」が誕生します。これが後のNHK交響楽団、つまり「N響」の前身なんですよ。

設立に奔走したのは山田耕筰ただ一人ではありませんでした。当時の音楽家たちが「日本にも本格的な常設オーケストラを」という夢のもとに集まった。明治初めに洋楽が日本に入ってきてから、まだ五十年ちょっと。東京音楽学校が生まれ、唱歌教育が全国に広まり、山田耕筰が日本初の交響曲を書き、そして今度は常設オーケストラの誕生です。この歩みの速さ、本当に驚きませんか。

私が学生のころ、先生からこんなことを言われたことがあります。「ヨーロッパが数百年かけて積み上げたものを、日本は五十年で追いかけた。だから日本の音楽家はいつも少し急いでいるんだ」と。その言葉が、昭和初期の音楽史を調べていくと、妙にリアルに感じられてくるんですよね。

ラジオと音楽の蜜月時代

新交響楽団の誕生と、ラジオ放送の普及はほぼ同時進行で起きました。これは偶然ではなく、時代の必然だったと思います。

NHKは積極的にクラシック音楽をラジオで放送しました。コンサートホールに足を運べない地方の人々も、農家の方々も、子どもたちも、ラジオさえあれば交響楽を聴けるようになった。東京音楽学校の設立から始まった「音楽の民主化」が、ラジオという技術によって一気に加速したんですよね。

私の祖父の世代に当たる方々の話を聞くと、「ラジオで初めて交響曲を聴いた」という方がとても多い。コンサートホールは敷居が高く、レコードも高価だった。でもラジオは違った。茶の間に音楽が飛び込んでくる感覚は、当時の人にとってまさに革命だったはずです。そして、ラジオで音楽を聴いた人たちが、今度はコンサートホールへ足を運ぶようになっていく。メディアと生演奏が互いを高め合っていく、素晴らしい循環が生まれていたんですよ。

日比谷公会堂という夢の舞台

一九二九年、日比谷公会堂が完成します。東京に、本格的なコンサートの場が生まれた瞬間です。私も何度かあのステージに立ったことがありますが、あの独特の空気感は今も変わっていない気がして、演奏しながら「昭和初期の音楽家たちも同じようにここで緊張したんだな」と思ったりするんですよ。

大正デモクラシーの自由な空気を吸って育った若い世代が、昭和に入ってコンサートホールへ向かい始めた。「音楽を聴く」という行為が、一部の上流階級だけのものではなくなりつつあった時代です。学校で唱歌を歌い、ラジオで交響楽を聴いて育った世代が、日本のクラシック音楽の「最初の大衆」となっていった。

それでも、時代の影は忍び寄って

しかし、この輝かしい昭和初期の音楽文化には、すでに暗い影が差し込み始めていました。一九三一年の満州事変、そして一九三七年の日中戦争へと続く軍国主義の足音が近づくにつれ、「敵国の音楽」であるクラシック音楽は、徐々に難しい立場に置かれていきます。

ベートーヴェンはドイツ人だ。ショパンはポーランド人だ。そういう声が、少しずつ音楽の周りを取り囲んでいった。ラジオで自由に流れていた音楽が、時代の波に揉まれていく。音楽家たちはそれでも演奏し続けました。ラジオからも流れ続けました。戦争と音楽の複雑な関係は、日本のクラシック音楽史の中でも最も重く、そして最も切ない章の一つです。

次回は、戦時下において日本の音楽家たちがどんな葛藤を抱え、それでも守り続けようとした音楽への思いについて、お話しできればと思っています。