日本とクラシック音楽の物語

昭和の夜明けと交響楽団 ―― 近衛秀麿が拓いた音の時代

大正から昭和へ――時代のうねりの中で

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御され、翌日から元号は「昭和」に改められました。わずか15年という短い大正の時代は、自由と文化の花が咲き乱れた季節でしたが、その終わりには関東大震災(1923年)の痛手もあり、社会は少しずつ変わりつつありました。

でも、そんな時代の切れ目に、クラシック音楽の世界では一つの大きな出来事が起ころうとしていたんです。

近衛秀麿という人物

近衛秀麿(このえ・ひでまろ)という名前を、ご存じでしょうか。五摂家筆頭・近衛家の御曹司として生まれながら、彼はその高い身分をそのままに、音楽家としての道を選んだ異色の人物です。

1926年、ベルリンやパリで指揮を学んで帰国した秀麿は、当時の日本のオーケストラ事情を見て、大きな危機感を覚えたと言います。東京音楽学校はあれど、日本には本格的な常設交響楽団がない。演奏会のたびに集まっては解散するような形ではなく、一つの楽団が常に稽古を重ね、同じ音楽観を共有して演奏できる環境が、まだ日本には根付いていなかったんですね。

私も若い頃、先輩演奏家からこんな話を聞かされました。「日本のオーケストラが今あるのは、近衛さんという人が土台を作ったからだよ」と。当時はよくわからなかったのですが、この連載を書きながら、その言葉の重さをしみじみ感じています。

新交響楽団の誕生

1927年(昭和2年)、近衛秀麿は私財と人脈を惜しみなく注ぎ込み、「新交響楽団」を設立します。後に「NHK交響楽団」として今日に至るこの楽団の、これが出発点でした。

「新」という字には、単なる新しさ以上の意味があったのかもしれません。それまでの日本の演奏文化を刷新し、欧州と同水準の本格的な交響楽を日本に根付かせようという、強い意志の表れだったのではないでしょうか。

楽団員の多くは東京音楽学校の出身者たちでした。明治の頃に種をまかれ、大正の時代に育てられた音楽教育の成果が、昭和になって一つの花を咲かせた——そう思うと、歴史ってこうして繋がっていくんですよね。

ラジオが変えた「聴く」という体験

同じ頃、1925年(大正14年)には社団法人東京放送局が日本初のラジオ放送を開始していました。翌1926年には日本放送協会(NHK)が設立され、ラジオは瞬く間に家庭へと普及していきます。

想像してみてください。それまで音楽というものは、演奏会に足を運ばなければ聴けないものでした。チケットを買い、着飾り、会場へ向かう。それは特別な人々の、特別な体験だったわけです。ところがラジオの登場で、家の茶の間にいながらにして、オーケストラの音楽が流れてくるようになった。これは、当時の人々にとってどれほど驚くべきことだったか……。

新交響楽団はこのNHKと深く結びつきながら、ラジオを通じて全国の人々にクラシック音楽を届けていくことになります。コンサートホールに来ることのできない地方の人々にも、初めて交響楽が届いた瞬間でした。

レコードという「音の缶詰」

さらにこの時代、蓄音機とレコードの普及も見逃せません。ラジオが「今この瞬間の音楽」をもたらしたとすれば、レコードは「音楽を保存し、繰り返し聴く」という革命をもたらしました。

かつて私の祖父は、戦前のSP盤レコードを大事そうに聴いていたと、親から聞かされています。「音の缶詰」と呼ばれたあのレコードたちが、昭和初期の日本人にどれほどの感動を与えたか。音楽は生で聴くものだという常識が、静かに、しかし確実に塗り替えられていったのです。

「聴く文化」の誕生、そして次の嵐へ

近衛秀麿の新交響楽団、NHKのラジオ放送、そしてレコードの普及——昭和初期のこの三つの潮流が重なり合ったことで、日本のクラシック音楽文化はまた一段と深まりました。演奏する文化だけでなく、「聴く文化」が日本に根付いていった時代です。

もちろん、この後に待ち受けるのは軍国主義の台頭と戦争の時代です。その激流の中で、音楽家たちはどう生き、何を奏で、そして何を思ったのか。日本のクラシック音楽は、その嵐の中でどんな道を歩んだのか——次回は、その重く、そして切ない物語をお伝えできればと思っています。