コンサートホールの壁を越えて
大正から昭和へ――この時代の転換点を思うとき、私はいつも「音楽は誰のものか」という問いに行き着くんですよ。
前回お話しした大正デモクラシーの時代、東京のコンサートホールには熱気があふれていました。山田耕筰が指揮棒を振り、若い音楽家たちが欧州から帰国し、クラシック音楽は確かに花開いていた。でも正直に言えば、それはまだ「特別な人々の文化」だったんですよね。東京でも大阪でも、コンサートに足を運べる人というのは、時間と財力と、そして特定の知的階層に属していることが半ば前提でした。
では、地方の農村に暮らす人は?小さな子どもは?仕事を終えてくたくたになった職人や商人は?彼らにとってクラシック音楽は、まるで別世界の話だったわけです。
その壁を一気に取り払ったのが、蓄音機とラジオでした。
蓄音機という「魔法の箱」
蓄音機(グラモフォン)が日本に伝わったのは明治のころのことです。エジソンの発明した円筒型の蝋管式蓄音機が1890年代に紹介され、人々は「箱の中から声が出てくる」と驚いたといいます。当時の新聞には「蓄音機見物」という言葉が載るほど、それは一種の見世物でもあったんですね。
しかし大正末期から昭和初期にかけて、蓄音機は一般家庭に入り込んでいきます。日本コロムビアの前身となるレコード会社が本格的に事業を拡大し、ベートーヴェンの交響曲やモーツァルトのピアノ協奏曲が78回転の黒い円盤に刻まれて、店頭に並ぶようになりました。
私は学生時代に古い蓄音機でSP盤を聴いたことがあります。音質は今から見れば荒削りで、ノイズも多い。でもその「音」の向こうに、1920年代のヨーロッパのオーケストラが確かに存在していた。フルトヴェングラーが、ワルターが、そこにいた。その感動は今でも忘れられないですよ。
日本の人々が初めて「本場のクラシック音楽」を耳にしたのが、まさにこの蓄音機だったわけです。コンサートホールに行かずとも、居間の卓上に「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」を招くことができるようになった――これがどれほど革命的なことだったか、想像してみてください。
1925年、電波が音楽を運んだ
そして昭和前夜、もう一つの革命が起きます。
1925年(大正14年)3月22日、東京・芝浦の仮スタジオから日本最初のラジオ放送が流れました。「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」――その歴史的な第一声は、今もどこか胸を打ちますよね。
翌1926年には全国放送網を整備すべく、NHKの前身となる日本放送協会が設立され、ラジオは急速に普及していきます。そして、このラジオ放送において音楽番組は最初から重要な位置を占めていました。
クラシック音楽の演奏会が、電波に乗って茶の間に届く。それまで「聴きに行くもの」だった音楽が、「家にいながら聴けるもの」になったのです。北海道の農家も、九州の漁村も、ラジオがあれば同じ音楽を同時に聴くことができる。この「同時性」と「遍在性」は、音楽の社会的意味を根底から変えたと思うんですよ。
「見えない聴衆」との対話
ラジオ放送に出演した演奏家たちは、当初、この新しいメディアに戸惑いを感じたといいます。コンサートホールでは聴衆の表情が見える、拍手が聞こえる、空気が一体化する瞬間がある。しかしラジオのマイクの前には、その一切がない。
ある演奏家は「虚空に向かって弾いているようだ」と語ったそうです。この感覚、演奏家として私にもよくわかります。ホールの残響と聴衆の息づかいは、演奏者にとって欠かせない「対話」なんですよ。それがないラジオスタジオは、最初は確かに奇妙な空間だったに違いありません。
でも同時に、この「見えない聴衆」との対話が、演奏家に新しい想像力を育てたとも言えます。目の前に誰もいないからこそ、電波の向こうにいる無数の人々に思いを馳せる。畳の部屋でラジオを囲む家族の姿を、山の向こうで一人でダイヤルを回す老人の姿を。そういう「届け先」への想像が、演奏をより豊かにした側面もあったのではないでしょうか。
音楽の「民主化」という贈り物
蓄音機とラジオがもたらした最大の変化、それは音楽の「民主化」だったと私は思います。
それまでクラシック音楽を楽しめるのは、都市部の教育を受けた中産階級以上に限られていました。しかしラジオは、階層も地域も関係なく、等しく音楽を届けた。昭和10年代には「家庭の音楽鑑賞」という文化が定着し、主婦向けの音楽解説番組や子ども向けの音楽教育番組も生まれていきます。
これは単に「音楽が広まった」という話ではないんですよね。日本人がクラシック音楽を「自分たちの文化の一部」として受け入れ始めた瞬間でもあったわけです。明治の御雇い外国人が持ち込み、山田耕筰たちが日本語で表現しようとした西洋音楽が、今度はラジオという電波を通じて、本当の意味で「市民の音楽」になっていった。
もちろん、この時代には影も忍び寄っていました。昭和に入ると軍国主義の足音が聞こえ始め、やがて音楽もその波に飲み込まれていきます。しかしそれはまた次回の話。
今はただ、電波に乗って家庭の茶の間に届いたクラシック音楽の、その瞬間の輝きを、しばし思い返してみてください。
次回は、激動の昭和戦前期――軍靴の足音の中で、音楽家たちはどのように生き、演奏し続けたのか。その光と影に迫ります。
