日本とクラシック音楽の物語

新交響楽団の誕生 ―― 昭和とともに響いたオーケストラの夢

大正の輝きが沈む頃

前回は、大正デモクラシーという開放的な時代の空気の中で、クラシック音楽が東京の文化人たちの心を捉えていった様子をお話しました。帝都・東京のコンサートホールには背広姿の紳士や洋装の女性たちが集い、欧米の音楽に夢中になっていた――あの活気ある時代のことです。

でも、時代というのは残酷なほど移り変わっていくものですよね。1923年(大正12年)、関東大震災が東京を根こそぎ飲み込みました。築き上げてきた文化の場も、音楽の舞台も、多くが瓦礫の山になってしまったんです。

それでも――いや、だからこそかもしれない――音楽への渇望は消えませんでした。廃墟の中から立ち上がるように、新しい音楽の夢が静かに芽吹いていったんです。

一人の青年がヨーロッパから持ち帰ったもの

1920年代の初め、ひとりの若い日本人がヨーロッパから帰国しました。名前は近衛秀麿(このえ・ひでまろ)。1898年生まれ、当時二十代の若者です。

彼の経歴は、当時の日本では異色でした。五摂家の名門・近衛家の出身でありながら、ベルリンに渡って本格的に指揮と作曲を学んだんです。ドイツのオーケストラの響きを全身で浴び、ベルリン・フィルの練習を間近で見て、指揮台に立つことの意味を体で覚えてきた。

帰国した近衛が痛感したのは、日本にはまだ「本物のプロのオーケストラ」がない、という現実でした。東京音楽学校には立派な学生オーケストラがあったし、山田耕筰先生も精力的に活動されていた。でも、毎週コンサートを開き、プロとして生活できる常設のオーケストラはまだなかったんです。

私も若い頃、「自分たちでアンサンブルを立ち上げよう」と仲間と話し合ったことがあるんですよ。お金はない、練習場所もない、でも音楽への情熱だけはある。あの頃の近衛たちも、きっとそういう気持ちだったんじゃないかと思うと、妙に親近感を覚えてしまいます。

1926年、オーケストラが産声を上げた

1926年(大正15年・昭和元年)。この年は奇しくも、大正から昭和へと元号が変わった節目の年でもありました。

近衛秀麿を中心に、日本人の演奏家たちが集まって「新交響楽団」が結成されたのです。メンバーは主に東京音楽学校の卒業生たち。演奏の腕は確かだけれど、プロとして音楽だけで食べていくことへの不安を抱えた若者たちが、「やってみよう」と旗を掲げた。

最初の演奏会は日比谷の会場で開かれました。客席を埋めた聴衆の顔に、期待と興奮が見て取れたことでしょう。「日本人だけで、ちゃんとした交響曲を演奏できるんだ」――その事実が、どれほど多くの人に驚きと誇りをもたらしたか。想像するだけで、ちょっと胸が熱くなるんですよね。

音楽の「職業」が生まれた日

新交響楽団の結成は、単に「新しいオーケストラができた」という話ではなかったんです。日本で初めて、音楽家が「演奏家として生きていける」という道筋を示したという意味で、大きな転換点でした。

それまでの音楽家の主な道は、学校で教えるかお稽古事の先生になるかでした。「プロの演奏家」として定期的にオーケストラで弾いてお給料をもらう――そういう生き方が、ここで初めて現実のものになったんです。後進の音楽家にとって、どれほど大きな希望だったか。

NHK交響楽団へ、そして現在へ

新交響楽団はその後、幾多の変遷を経て、1951年にNHK交響楽団(N響)として再出発します。現在も日本を代表するオーケストラとして世界に誇る存在となったN響の歴史を辿れば、あの1926年の船出に行き着くわけです。

私自身、N響の演奏会を初めて聴いたときの感動は今も忘れられません。あの豊かな響きの背後に、近衛秀麿たちの夢と奮闘があったんだと知ったのは、ずいぶん後のことでしたけれど。

昭和という時代の始まりに

ただ、この夢の船出は、嵐の前夜でもありました。昭和という時代は、やがて戦争という巨大な波にのみ込まれていく。音楽家たちもその波と無縁ではいられなかった。

今回はひとまず、この誕生の喜びを嚙みしめておきたいんです。震災の傷が癒えぬ中、廃墟から芽吹いたオーケストラという夢が、どれほど多くの人々の心を支えたことか。

次回は、昭和の動乱期――音楽家たちが戦争と向き合いながらも演奏し続けた、その複雑で切ない時代の物語をお届けしようと思います。音楽は戦火の中で何を守り、何を失ったのか。ぜひまたお付き合いください。